| 2005年 7月28日(木) コラム第七弾「司法制度改革と憲法判断」 |
| 司法制度改革が行われている。 不思議なことに日本の社会の根底から変革されたと思われる敗戦後のGHQの統括時代や新憲法制定後においても司法制度そのものは何も変わっていなかったことに驚く。 改革内容は民事裁判の迅速化から弁護士の国際化といった分野まで様々だが、その中でも話題にもなっているのが、国民感覚をきちんと持った法律の専門家を増やすための「法科大学院」と、刑事裁判に国民の裁量を入れようという「裁判員制度」。 「法科大学院(ロースクール)」は、法の仕組みや法に携わる意味合いもわからないまま、ただ単に試験に受かればいいという傾向が強いなどと批判のあった誰もが受けられる一発勝負型の司法試験制度を改めるために設けられた。いわば医者になるために医大に入らなくてはならないのと同じことのようだ。法科大学院で法律だけではなく、社会全体での法の役割を学習させ、現在毎年1,000人ほどの司法試験合格者を2010年以降毎年3,000人の司法試験合格者を出していく予定らしい。法の専門家を増やすことで離島や過疎地域での司法関係者の空白地域の解消も出来るという。ただし、法科大学院の設立だけで社会常識を持った司法の専門家が本当に多く生み出せるのか、法律の専門家を現在の3倍も輩出することになれば裁判を商売としてしか考えない営利主義がますます横行しないのかという問題がある。 「裁判員制度」は、殺人など最高刑が死刑や無期など重大な刑事事件で、警官や司法関係者を除いて抽選で選ばれた市民が「国民の健全な社会常識」を反映させて有罪・無罪や刑の重さを裁判官と一緒に判断するようにすること。これも先のアンケートで7割が裁判員になりたくないという散々な結果。その理由はいろいろある。量刑の重い裁判の有罪無罪を判断しなければならないので、裁判で自分が本当に人をちゃんと裁けるのか、その権利が本当にあるのかという不安。裁判員になってこんなことに気を使いましたとか、こんなことが許せませんでしたとかいった判決とは関係のないことであっても、生きている限り裁判のことを公にしてはいけないという重い刑罰ありの秘守義務があること。判決が結局のところ前例や従来の約束事に縛られ、裁判員制度にしても独自の判決が出せないのではないかということ。病気の子供がいる主婦であれ、人手がいない集金日の自営業者であれ、求職活動中の失業者であっても、どんな理由があろうと裁判を休めないなどの拘束規定が問題。国民が参加できる制度にするにはもっと工夫が必要といったところかもしれない。 この注目されている二つの改革だけを取り上げてみても、国民の感覚と司法側の感覚が大きくかけ離れていることを是正するための処置であり、それは一言で言うなら国民のための司法ではありえなかったということでしかない。 結局のところどんなに司法制度が改革されたとしても、司法は国家の権力の一つで、国民を支配するための権力にはなりえても、国民のために行使される権力ではないのかもしれない。国民がいくら司法に望んでも、司法が国民の方を向くことは出来ないのではないのか。それならそもそも司法が何のために存在しているのか? 2005年7月26日、今回も憲法判断はされなかった。 小泉首相の靖国神社公式参拝問題で、大阪地裁に続き大阪高裁でも合憲、違憲の判断は示されなかった。この流れでは、きっと最高裁判所も同じように憲法判断を示すことはないだろう。 憲法判断が求められる裁判で、裁判所がそれを示さないのは何もこの靖国神社の公式参拝問題だけではなく、自衛隊、日米安全保障条約、教育、公害、自然保護、環境権、難民や国籍取得、一票の格差、表現の自由などの問題に対して、ごくごくわずかな例外はあるものの、ことごとくといっていいくらいに憲法判断を示さないでいる。 裁判所というものは基本的に憲法判断をしてはいけないのかもしれない、そんな風にさえ感じてしまう。 日本国憲法にはこうある。 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。(日本国憲法第七十六条3項) 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。(日本国憲法 第八十一条) すべての法律の元になる憲法、そしてその憲法を何よりも厳粛に守り、それを行政や立法機関に行わすべく監視をしなければならないのが司法の役目。憲法判断を下せない裁判所に司法の砦としての価値はあるのだろうか? いくら国家が混乱しようと、政権が変わろうと、政党がつぶれようと、行政の権力が縮小されようと、外交問題がいくら起ころうと、司法が、裁判所が行うべきことは憲法を遵守させることでしかない。 もし、これまで多くの憲法判断を求められた裁判で、きちんと憲法判断をしていれば、憲法のその問題となった条文について論議がなされ、その都度憲法の改正や修正、補足といったものが自然に行えただろう。それをしなかった裁判所の責任放棄的な行動が、条項の内容だけではなく前文も含め憲法全体を書き直さなければならないような、現在のゆがんだ憲法改正の論議を起こす原因になってしまった。 ここでひとつタウンポートからの提案。 「憲法判断にこそ国民裁判員制度を導入すべきである。」 量刑の重い刑事事件で人を裁くことも大切だが、憲法に関わることもそれ以上に大切なことではないのだろうか。 司法から日本を変える、そんなことがあってもきっと良い。と思います。 |
| 2005年 3月15日(火) コラム第六弾「新しいメディアの可能性!」 |
| 日が経つに連れて益々国民の関心を引いているのが、フジテレビとライブドアによるニッポン放送の支配権の行方。あの手この手の応酬が続いている。 フジテレビが最大株主のニッポン放送にTOB(会社支配のための株式公開買い付け)を行う際の記者会見で、「株式総額がフジテレビよりもずっと低いニッポン放送がフジテレビの大株主なのはおかしいので、そのねじれを解消するためのTOBだ」と公表したことが事の発端。TOBが成功するかどうかもわからないうちに、「それならニッポン放送の株を取得すればフジテレビに影響力を持てるんだ」と世間に知らしめてしまったことはフジテレビ側の完全なミス。外資規制のある放送業に日本の会社で1,000億円近いお金を出して対抗してくるところが現れる筈がないといったフジテレビ側の驕りがあったことは間違いない。 両社の対立が一般的には会社が株主のものなのか社員のものかということが問題視されているが、それは資本の持つ力の表面的なことでしかない。資本は会社の基礎で、それで会社を興し、信用を得る商品商売を生み出し、より多くの利益を追求し、資本を提供してくれたものに還元することが資本主義の基本。今回問題になっている企業買収は資本主義の派生的なもので、企業価値を上げる買収、企業の良いとこだけを高値で売るための買収、ライバルを潰すための買収などいろいろな買収があるが、ライブドアがニッポン放送の買収株式を取得して本当は何をしようとしているのだろう。 確かにライブドアは企業の買収を繰り返すことで大きくなっている。もし、フジテレビがいうようにライブドアがニッポン放送株をマネーゲームの道具に使っているだけだとしたら何の面白みもないが、ライブドアのこれまでの買収は会社を食いつぶすためにしてきたようには思えない。ホリエモンことライブドアの堀江貴文社長の言うように企業価値を上げると為に、ITとマスメディアの結びつきを本当に考えているのだとしたらとてつもなく面白いことになるかもしれない。 このインターネットがマスメディアと融合できるかということがニッポン放送をめぐってフジテレビとホリエモンとの間の大きな溝になっているみたいだ。具体的にニッポン放送を使って何が出来るのかを示さないことが反堀江の意見としては一番大きいように思われる。しかし、「このようにラジオをインターネットと融合させたい」、「こんなことが出来るはずだ」と現時点で公表してしまうことは、アイデア自体が他社に先行される可能性が高いのでそう簡単には公表されるわけもない。 それに、もし現状で融合案を示したとしてもニッポン放送が受け入れる確立は少ない。平均年収が1200万もあるお役所化してしまった老舗ブランドの社員が、例え会社の売り上げが10倍になって株主への配当が10倍に増えるといわれても、はいそうですか!と株主のためにこれまでのやり方を変えては動かないだろう。インターネットに広告収入を抜かれたにもかかわらず、ラジオがどう変われるのかを本気で考えている感じはしない。今の売り上げがいいから、今の待遇がいいから現状を肯定してより上を目指さないことは企業の怠慢といわれても仕方ない。横並びの放送業界で他者には出来ない新しいサービスをはじめることで利益を何倍何十倍にでも出来るのであれば、それを行うことも企業として必然的に考えなければならないだろう。その意味からしても、ライブドアがフジテレビを別としても巨大ラジオ局を手中にすることは注目に値する。 インターネットがマスメディアと結びつくことで、新しいメディアの形が構築される可能性があることはインターネットの普及していく段階で言われていたが、アメリカでAOLとタイムワーナーの合併が相乗効果を産み出せなかったことがいけなかったのか、ネットとマスメディアは相性が悪いという印象があるようで、最近では否定的な意見が多い。しかしブロードバンド化が急激に進んでいる日本では、インターネットとマスメディアの境界線がほとんどなくなってきていることは確かで、この状況なら新しいメディアが構築される可能性はかなり高くなっている。 見えるラジオ放送として一時話題になったことがあったが、今ラジオも文字情報を送っている。専用の機種が必要なためほとんど普及もしていないが、インターネットに広告収入で抜かされたラジオの最大の弱点はやはりビジュアル。インターネットとの融合で、ネットでラジオ番組をコンテンツとして配信することでラジオがビジュアルを持てることになる。番組の作り方によってはテレビと同じ感覚で視聴できることになる。その効果は今までのラジオという枠では計り知れない面白さがある。 そのひとつがビジュアルのある広告。音声だけの広告から静止画なり動画なりを流せるのであればラジオの広告価値は格段に上がる。また、トークが主体の番組や音楽などでは音声の内容に関わらずパソコンの画面上で無声の広告をずっと流せるなど広告媒体としての価値はこれまでのラジオとは比べ物にならないくらいに高まる。 さらにパソコンをしながら音楽を聞いている人は多く、その人たちがラジオから流れてくる音楽で気になったものがあればすぐにダウンロードが出来るという点からしても、音楽配信でラジオが大きな役割を担えることは確実だろう。 もっと言えば、すでにデジタル化されているラジオの電波が通信媒体として使われるようになるかもしれない。 考えればいくらでもアイデアなり可能性なりがある。でもそんなアイデアや可能性はラジオ局が考えても出てこないだろうし、ラジオを越えたマスメディアの長として君臨しているテレビ局でも考えられないし、新聞社でも無理だろう。これまでのマスメディアの常識を超えた何でも出来る新しいメディアが生まれようとしているのかもしれない。 フジテレビへの新株予約件が地裁の判断で完全に否定され、高裁、最高裁へとまだ法廷闘争は続くのかもしれないが、株式の取得が両社とも50%を超えられないまま、どちらがニッポン放送の実権を握るのかはともかくとして、この機に新しいビジネスチャンスをマスメディアも本気で考えてみる必要がある。 手遅れにならないうちに、マスメディアがマスメディアとして認められているうちに。 |
| 2005年 1月 5日(水) コラム第五弾「国家公務員を減らす方法!」 |
| 今、日本の国や地方、いわゆる行政組織が抱える借金の額を知っているだろうか?国と地方の借金(長期債務)の総額は700兆円を軽く超え、生まれたばかりの赤ん坊まで入れた日本の人口で割ると、一人600万円もの借金を背負っていることになる(「リアルタイム財政赤字カウンタ」による)。この借金を返すとしたら現在の税収をそのまま借金の返済に充てたとしても30年以上かかってしまうほど膨大な金額で、普通に考えれば完全に財政破綻の状況。この実情においても国の予算や交付税は微々たる減少しかしないで、遅々として財政健全化の道筋は見えてこない。それなのに、マスコミが大きく取り上げるせいもあるのだろうが、増税の話だけがどんどんと具現化してきている。 そんな中で、国は国家公務員の1割削減を打ち出した。国も経費の削減に努めているそぶりを見せることで増税に対しての反発をかわすことも当然狙ってのことだろうが、実際にいつまでに削減出来るのか、何故1割なのか、どんな減らし方をするのかといった疑問も出てくる。しかし、何故国家公務員の削減が今になって出てきたのだろう?財政が苦しいのは今に始まったことではないのに。お役人仕事は確かに非効率さを抱えていて、一般の国民からしたらあまり働いていないように見られがちだが、複雑化する社会で肥大化していった行政組織を支えてきたことは間違いないはずである。今まで人員削減をしなかったのは行政機関の役割がそれだけ大きかったという表れ(または政府や官庁の思い込みの産物)で、これまでは人員の削減よりも給与の上昇率を抑えることが求められてる声の方が多いように思う。人員を削減することには大賛成としても、地方や民間への権限委譲や官庁が持つ膨大な規制の廃止や緩和・簡略化が進まなければ、行政機関がいくら機械化やエレクトロニクス化を勧めても、いくら国と地方がオンラインで情報を共有出来たとしても、基本的にやる仕事に変わりがないのであれば人員の削減ははじめっから不可能ということになる。 それにもうひとつ、今回の国家公務員の削減がスムーズに行われたとしても、経費削減につながらない可能性が大きい。これまで国がしてきたことを考えれば、削減された人たちの大半が官庁の関連する企業や団体に天下りして、その天下り先に国が支払うお金が増えてしまうことになるので、財政の健全化に結びつくとは到底考えられない。 世間に反感や怒りを買っている天下りを本当になくすためには、天下りをしないさせないといった何の役にも立たない取り決めをするよりも、道路公団や住宅供給公社など国が関係する団体の完全民営化を迅速に行い、それらの団体のファミリー企業の廃止を即刻行う必要があるのに、それらに関しての方策は何一つ出ていない。 人員の削減を有意義なものにするためには、一人の天下りも絶対に許さない、その姿勢をはっきり見せれば国民も納得して、厳しい試験をクリアした有能な人材を求めている民間の企業や社会にきちんと送り出すシステムを整えることが出来る。それが一番大切なはずなのに、国が理解していないことが気にかかる。もともと、自分たちで自分たちの不利なことは出来ない。予算を削減することも、部署を統合することも、仕事を能率化させることも、天下りを廃止させることも出来ないのに、人員の削減による経費の圧縮など国に出来るはずなどない。結局のところ、この人員の削減案は仮に行われたとしても無意味だと言い切れる。 そこで、タウンポートから国家公務員の人員削減案を提示したい。 本来、人員を削減させる場合に考えなければならないことは、何人削減するかではなく、何人が必要なのかということである。1割削減した場合には一人当たりの仕事量がどれだけ増えるのか、3割削減した場合はどんな支障が出てくるのか、5割削減した場合には何が出来て何が出来なくなるのか、6割削減した場合にはどうなのか、9割削減した場合には最低何が出来るのか、その組織自体を失くせば誰がどう困るのか、の答えを省庁毎に、そして行政全般として出させる。削減の割合によって地方行政との連絡が疎になる、地方への権限委譲が必要になる、丸々民間に委託しなければならない業務が出てくる、地方や企業の監視が出来なくなり、ほとんどの規制に関して国で責任が取れなくなる、といった様々な問題が提議されるだろう。そこまで出来れば、人員を1割から9割までの削減案と提議されたものとを国民に提示して考えてもらおう。国に何をしてもらいたいのか、国に何を望んでいるのか、国が何をするべきなのか、国の機関として何が必要なのか、それを国民に考えてもらって決めさせればいい。それで、もし、国民が地方や企業の監視を国に求めず、規制で守られることよりも9割の人員削減を望むのであれば、9割の人員削減を国は実行するしかない。政府や官庁が決めるのではなく国民が決める、それが民主主義のルールである以上・・・。 |
| 2004年 9月14日(火) コラム第四弾「どこに向かう?プロ野球!」 |
| ここ何ヶ月間、プロ野球をめぐって社会が騒がしい。そもそも近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブとの合併話から始まったこの騒動は、最大の山場を迎えつつある。でも、どんな形で落ち着くにしろ、本当に考えなければならないのはプロ野球の目先のことではなくて、プロ野球を頂点にした日本の野球そのもののことだと分かってもらえますかね? オリックスに合併を申し込んだ近鉄は毎年40億円の赤字という。それも球団設立から半世紀以上がたっているが一度も黒字になったことがなく、これからも黒字になる見通しがないという。毎年数億〜数十億円にもなる赤字を50年以上積み重ねている会社が今まで存続できてきたことが不思議なこと。しかし、赤字の球団は何も近鉄に限ったことじゃなくて、12球団のほとんどが赤字ということらしい。プロ野球の球団もひとつの株式会社として存在している。株式会社は当然利益を上げることを目的に作られているので、その事業が毎年大赤字なら、合併や廃業も当然の事。今回の近鉄は球団の売却ではなくオリックスとの合併を選択して、少なからず球団運営には関わっていくことを示した。しかし、売却すれば100億円以上の収入が見込めるにもかかわらず、合併をしても赤字を免れない球団経営を続ける意図は説明されないまま。何故、そこまでして球団を持つ事にこだわるのだろう? 比較するのもおかしい話だが、大リーグでは球団は自助努力なくして運営できない。日本では赤字を抱えたままでも球団を維持していられたことが大きな間違いだろう。そして、大リーグ機構が傘下の球団だけではなくアメリカの野球の発展を担っているのに対し、日本のプロ野球機構は努力しない球団が改革を出来ないようにしている組織にしか過ぎないということ。 それを踏まえて球団の経営に参加することの意味を考える必要がある。 日本のプロ野球の球団というのは不思議な会社で、親会社やグループ会社の広告宣伝を果たしているという理由で親会社やグループ会社から広告宣伝料として赤字の補填が法律で許されている。これは他のスポーツはもちろんどの企業でも許されない、プロ野球の球団にだけ与えられた特権。 また、球団の経営状況は株式会社にもかかわらず公表されない。プロ野球の球団の多くは株式の100%を親会社や関連会社が所有しているので、決算に関しても親会社との連結でしか発表されないため、球団が本当はどれくらいの収入があってどれくらいの支出があるのか外部には全くわからない。近鉄が発表した球団の40億の赤字というのも実は本当かどうかわからないし、他の球団にしても黒字や赤字と言われていても本当のことはこれまたわからない。そのことを一番表しているのが、プロ野球の観客の公表の仕方。がらがらな球場でも2万人以上が入っているのかと不思議に思っている人も多いかもしれないが、プロ野球は経営状態を公表する必要がないため、年間予約シートまでを観客に数えた数を公表している。しかも2万5千人や3万4千人といった千人単位の数字しか出てこない。サッカーをはじめ他のスポーツはチケットを購入して試合を観に来てくれた人の数を一人の単位まできちんと管理し公表している。これは収支をはっきりさせて健全に会社を運営していくためには当然必要なこと。しかし、プロ野球が観客数を本当に把握することはない。 こんな状況で健全な球団の運営が出来るはずはないし、企業努力をする必要を感じることもないだろう。 自助努力をしないで球団がつぶれていくのは仕方ない。しかし、その努力すらせずに何十億円もの赤字を垂れ流し、売却をしてその赤字の一部を補填することもなく、放映権の一括管理や分配などの提言もしないまま、プロ野球の球団経営に参加することだけに固執する企業のあり方はいかがなものか。それを許し、機構を変えようとしないプロ野球という組織はいったい何のために存在しているのだろう。 こんな疑問も浮かんでくる。球団を保有する会社はプロ野球に与えられた特権を利用して、親会社やグループ会社の不明確な赤字を球団に押し付けたり、赤字を装って裏金を作ることに利用していないだろうか? もしそうなら球団の経営から手を引きたくない気持ちもわかるし、新しい参加を認めたくないこともわかる。立派な犯罪ではあるが。 今こそプロ野球は特権を放棄して、普通の会社として球団を運営することが求められている。そして、複数の企業による球団経営や外国資本の参加、外国人枠の撤廃、ドラフトの根本的改革、放映権の一括管理均等分配などを行なって、観てもらえる『プロ』としての野球を球団が目指さなければならない。 アテネオリンピックで金を取るために結成された長島ジャパンの敗北から、野球のあり方そのものを国際水準に近づけていく方法を考えようという意見が出てきている。もはやプロやアマの次元の話ではなく、日本の野球をひとつにして、選手の育成や国際大会で通じる野球のあり方を作っていかなければならない。そうしないと、世界に通じない日本の野球は野球ファンや次代を担う子供たちの野球離れを加速させ、日本の野球文化そのものを消滅させてしまう。今回のプロ野球の問題は、球団を持つ企業の問題ではなく、これからの野球文化をどう育てるのかを決める問題でもある。 変われるか「プロ野球」!!! |
| 2004年 5月26日(水) コラム第三弾「大阪人気質を使って大阪再生を考える」 |
| 江戸時代の昔から商人の町として栄えた大阪。昔を懐かしんでいるから今の低堕落があるんだという人もいるでしょうが、商人の町の繁栄はお上に頼らない町衆の心意気があってのもの。もし、米市場が幕府の思い通りのものになっていたら大阪の繁栄はきっと無かったはず。そのことを考えると、なんとなく今の大阪が抱えている根本的な問題が見えてきそうです。 大阪市も大阪府も赤字まみれで破産寸前。バブルのツケとはいうけれど、バブル以降に増えた赤字のほうがずっと多いんです。バブル後に赤字が拡大するのは対処が遅れている証拠。そして計画自体がお金は勝手にやってきて、後はどうにでもなるといわんばかりに、石橋を叩くことも無くとても税金を使ってしているんだと自覚してやっているとは思えない状況で事業が進められていたこともわかってしまいますね。もちろん今考えれば馬鹿みたいなことに予算を組んでいるのに、それを通してしまった市議会や府議会にも当然責任はあります。が、やはり住民に絶対損はさせない、住民が安心して暮らせる社会を作るといった本来の役割を見失ってしまった行政の責任は避けられません。 どうしてこんな巨額の赤字を発生させる事業を行政がしてしまったのかというと、それは国からどうすればお金を取れるかを考えることが行政の仕事のようにいつの間にか勘違いしていることに原因があります。でも、そうなったのは国が地方財政の大部分を握ってしまっているからで、国の示した基準に合致しないと補助金が出ないとか、大型のプロジェクトじゃないと特別予算は組めないなどの制約にあわせて日本国中が動かないといけないことになっているからです。滋賀県豊郷町で町長のリコールにまで発展した校舎建て替え問題も、旧校舎の補強修理より旧校舎を壊して建て替えをした方が高くつくのに、補助金でほとんどをまかなえるので町の負担が少ないのが原因。国が補強修理でも同じ額の補助を出していれば校舎の建て替えは無かったでしょう。 最近になって、東京都が銀行に対して外貨標準課税をかけたことから地方独自の財源確保の動きが現れたり、国の基準を満たさなくても地域に本当に必要な規模のインフラを整備していく方法を取る自治体や、予算の枠をはずして本来道路を作るための予算を福祉に回すことを宣言する自治体も出てきました。それでもまだ、ほとんどの自治体は国の示した基準に合わせた事業計画を描いて、国からの交付金や補助金の拡大を最重要使命として動いています。 そこで考えるべきなのは、最初に書いた大阪がかつて繁栄していた理由、お上が中心になるのじゃなくて、民衆が中心になって町を作る姿勢。 今とは自治権の違いがあるから一概に比べられないですが、今の関淳一市長のおじいさんの第7代大阪市長関一氏は、地下鉄の開設や大阪の大動脈御堂筋の開通、淀川以北に大阪市を拡大するなど、今の大阪の礎を築いた名市長ですが、当時の大阪も財政は貧窮していてとても大きな事業など出来る状態ではなかったのに、それらの事業がどんなに大阪の将来にとって大切なものかを直接市民との対話で訴えて賛同者を徐々に増やしたり、地下鉄や御堂筋が出来ることで恩恵を受ける業者に新税を作って課税するなどして大事業を成し遂げました。また大阪城を再建して欲しいという市民の意見を逆に市民に投げ返して寄付によって再建させるなど、知恵と情熱を持った行動が大阪の民衆の力を引き出すことも教えてくれます。 今、大阪を救うのは、関西空港が出来れば大阪の経済は良くなる、USJが出来れば大阪の景気は良くなるといった行政の思い上がった箱物理論ではなくて、知恵と情熱で市民の力をどう引き出すのかにかかっています。 お上が嫌いなだけでなく、お笑い好きな気質を引き出すことで、とんでもない発想とそれに答えられる画期的な方法も見つけられるかもしれませんし、高いものをどれだけ安く買ったかを自慢するような損得勘定によって動く気質を生かして、新たな商売や財源に結びつけることが出来るかもしれません。 それではタウンポートからひとつ提案させていただきます。 大阪名物といわれてしまう駐車違反ですが、これが原因で交通渋滞が起きてしまい、救急車両が迅速に目的地につけない問題だけでなく、大阪の経済活動の大きな障害にもなっています。大阪の経済的地盤沈下の理由のひとつにもあげられるほどで、交通渋滞による時間ロスを考えて大阪に事業所をおくことを避ける企業もあるそうです。この駐車違反に、条例で駐車違反の反則金よりも高い道路私的利用税みたいなものを反則金とは別に車の持ち主に請求出来るようにするだけで、駐車違反と府道や市道整備予算の問題は解決するかもしれません。もちろん安い駐車場の確保も同時に進めなければいけませんが、「あなたの税が市民の道路に生きています」のコピーと一緒にどんどん請求しましょう。税金ですから、警察の仕事じゃないですし、民間委託も出来ます。駐車違反の取締りを民間に委託することの是非を問うより、こっちの方が現実的だと思いませんか? 無理なようなことでも、知恵を絞り情熱を持ってすればいろんな人が動きだして、問題を解決する方法が必ず見つかるはずです。それをまとめるのがお上の仕事。お金を使うことを考えるより、こんなアイデアをいっぱい持ち寄って、変えてみましょうよ、大阪を! |
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